令和の世となり一ヶ月が過ぎました。ゴールデンウイークの最中に令和が始まり、その後ゴールデンウイーク中盤、終盤を迎えたため、令和のスタートは(遊びによる)疲労困憊の方も多かったと思います。この令和という時代が終わる時、良い時代だったなと思えるよう一日一日を大切にしていきたいです。
私の大学時代に昭和から平成になりました。その頃はバブルの全盛期で、高校の同級生の多くが、金融関係や建設関係に就職し、高額なボーナスや大規模な建築プロジェクトに関わって、とても華やかに見えたことを覚えています。その頃、私はまだ大学生で、学生にはバブルの恩恵はありませんでした。今回は平成の思い出として、学生から研修医の思い出に触れたいと思います。
医学部は6年あるため、私が香川医科大学の6年生の頃には、高校の同級生の多くは就職していました。その頃の金融系ボーナスにはびっくりしました。しかし、学生にはバブルはありません。皆がバブルを謳歌している時に国家試験を迎えようとしていました。平成4年1月から3月の国家試験前まで、一生のうちで一番勉強しました。3月国家試験が終わるや否や、大学の剣道部の仲間と北海道のニセコ温泉に国試滑りまくりツアーと題しスキー旅行に行きました。卒業式が終わった2週間後には岡山大学第2外科での研修がスタートするため、慌ただしく引っ越し、外科研修のスタートとなりました。バブルを実感することはありませんでした。
4月の第2週から外科研修が始まりました。岡山大学第2外科に入局した同期生は21人です。この仲間と一生苦楽を共にすることになりました。この同期の中には、現在岡山大学で肺移植を行い、世界のトップである大藤先生もいます。
当時は研修が始まった後のゴールデンウイーク明けに国家試験の発表があり、その時点で研修が終了する人もいました。私たち研修医は幸い一人も欠くこと無く研修がスタートしました。当時の教授からの教えは、1日最低二回は受け持ち患者さんを診察しなさい!ということでした。勤勉な私は、患者さんを診察しようと試みるのですが、技術が伴わないため、ついついよもやま話となってしまいました。そのかいあって、患者さんからはよもやま先生と呼ばれていたらしいです。その頃の研修医に対する患者さんの評価は注射でした。失敗せず注射が出来る先生は良い先生でした。この頃の生活は注射が中心で、バブルとは全然縁がありませんでした。そのような中、9月から大学を離れ他の病院で本格的な研修が始まります。その大事な研修先を決める方法は何と、あみだくじでした。(次号に続く。)